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《奴隷》

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault

彫刻
イタリア

執筆:
Geneviève Bresc Bautier

1505年から手掛けられた教皇ユリウス2世の墓の為だったが、ミケランジェロが《奴隷》の制作を開始したのは第2案の際の1513年のことである。教皇が亡くなり、計画は経済的理由により新たに変更となった。《奴隷》像は、ミケランジェロがそれを贈ったロベルト・ストロッツィを通してフランスに入った。

相反する感情

鎖に繋がれた2体の捕虜像が表わす感情は相反する。1体は非常に若く美しく、眠りに身を任せているように見える。多分永遠の眠りであろう。この像は《瀕死の奴隷》と名付けられた。もう1体は、より荒々しく、身を捩り震えた体で抵抗する。《抵抗する奴隷》と呼ばれている。この2体は、教皇ユリウス2世が夢見た自分自身の豪奢な霊廟の為にミケランジェロによって構想された。この霊廟は40年間の間数々の計画と共に移り変わった。
この図像のテーマを知る手がかりは殆どなく、《瀕死の奴隷》の横に僅かに削られた猿の姿のみである。これらの像は征服された諸地方を表すものか。教皇の死により奴隷に成り下がる諸芸術なのか。これらは教皇の永遠の勝利に参加するものなのか。隷属する情熱を表すのか、又はミケランジェロが心酔したプラトン主義論に従い、体の重みという鎖に繋がれた人間の魂を表すのか。この苦しむ体から表出される言葉に絶する力は中心から四方へと広がる。未完成が故にこの印象は更に強くなっている。

作品の起源

1505年の廟墓第1案の為に構想されたこの《奴隷》像は第2案が考案された1513年に手掛けられた。結局第4案でこれらは断念され、教皇の死後経済的な理由で霊廟は縮小された。ローマのサン・ピエトロ寺院に独立した霊廟を夢見たユリウス2世はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の中の壁面墓に安置された。この廟墓は《奴隷》像と同時期に制作されたミケランジェロの有名な《モーセ》像で飾られた。未完成の大きな大理石像は既に賞賛を集める作品であった。ミケランジェロはこの作品をフィレンツエ出身の亡命者ロベルト・ストロッツィに贈り、後者はフランス王に献上した。
《奴隷》像がフランスに着いたのは彫刻家がまだ健在だった頃で、この作品はアンヌ・ド・モンモランシー元帥によって建てられたエクーアン城の二つの壁龕の中に設置され、その後ポワトゥー地方のリシュリュー枢機卿の城へ移された。2体の《奴隷》像は廟墓の上の他の似たような像の横に置かれるはずのものであった。その内の4体の大理石像がフィレンツエのアカデミア美術館にあるもので、1531—1532年の制作で、同じ様に未完成のままにされた。

未完成

《奴隷》像は技術的な理由で未完成なのか。大理石の筋が《抵抗する奴隷》の顔にあるということ、また下の方の足が乗る台(テラス)の厚みが薄過ぎるということが、この作品を断念した理由と考えられる。だが、未完はミケランジェロにとっては一貫したテーマで、磨きかれた滑らかで完璧な《瀕死の奴隷》の体と、ごつごつした原石のままの大理石との間のコントラストの妙を使う。その芸術の真理への究極の探求の中で、自分の理想に達成できないと感じた時は諦める。ピック、錐、ヤスリ、鑿,穿孔錐の道具の跡をはっきりと目に見える様に残す。これらは、閉じ込められた案を引き出そうと必死に彫り込む、ミケランジェロのこの材料との飽くなき闘いの生きた証拠である。

作品データ

  • ミケランジェロ・ブオナㇽローティ、通称ミケランジェロ

    《奴隷》

    1513—1515年

    エクーアン城とリシュリュー城由来

  • 大理石

    高さ2.09m

  • 革命期接収、1794年ルーヴル所蔵

    《抵抗する奴隷》

    M.R. 1589

  • 彫刻

    ドゥノン翼
    1階
    ギャラリー・ミケランジェロ
    展示室4

来館情報

ルーヴル美術館 パリ フランス
地下鉄:1番線または7番線、Palais-Royal Musée du Louvre 駅
 
開館時間
月・木・土・日:9時-18時
水・金:9時-21時45分(夜間開館)

休館日:毎週火曜日、1月1日、5月1日、12月25日
 
 

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