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サン=ジョスの屍衣

© 2009 Musée du Louvre / Raphaël Chipault

イスラム美術
正統カリフ時代

執筆:
Makariou Sophie

この有名な布は、聖ジョス(669年歿)の聖遺物を包んでいた布である。同名の修道院に安置されていた。英国王、エティエンヌ・ド・ブロワによって、寄贈されたものである。エティエンヌ・ド・ブロワは、婚姻によって、第一次十字軍(1095–1099年)の二大中心人物である、ゴドフロワ・ド・ブイヨンとエルサレムのボードワンの甥であった。しかしながら、この布は、まず、東ローマ帝国に渡った後に、制作されてから150年後に、聖遺物匣(こう)に入れられたと考えられる。

思い上がった注文主

この布は断片ではあるものの、イラン東部のサーマン朝の領地で製産された絹製品の唯一の作品例である。クーファ体で記されたアラビア語の銘文がついているが、当然のことながら、解読に必要な弁別符は付いていない。それ故に、この銘文は多数の問題を提起した。一応、記された名前は、トルコ語で、ブーフテギンと読むべきだということで意見は一致している。よって、この名前は、ふたつの言葉から成り立っている。テギンはプリンスで、ブーフは「駱駝」と訳せる。しかしながら、「弁別符」を別の位置につけると、発音が変わり、したがって別の言葉にもなる。たとえば、ナホ・テギンと読んでみることもできる。ナホは悪魔という意味であるが。トルコ人は、よく動物の名や、トーテム信仰の霊の名を借りることを考慮に入れると、ブーフテギンは、最も可能性の高い解釈である。ブーフテギンは駱駝貴人という意味であるので、この布に、小さく、端に、帯状の装飾として表わされている動物と合致することになる。13世紀の偉大な歴史家、イブン・アル=アティールが記述を残した男は、この人物であるに違いない。この歴史家によると、ホラサーンを支配していたサーマン朝の君主、アブド・アル=マリク・ビン・ヌフ(954–961年)は、彼の大将軍でアミールのひとりであった、ブーフテギンを処刑した。君主は、こうして、地方の軍事蜂起の企てを阻止したという。ブーフテギンは、カリフの特権を犯して、禁制のティラーズと呼ばれる碑銘装飾のある布、カリフが盛装した時にまとう布を織らせることに後込みしなかった。そうなると、この布は、961年以前に制作されたことになる。ブーフテギンはこの年に処刑されたのであるから。

比類なき贅沢な布

この種の「サミ」(金襴)の製産地は、メルヴかニシャプール、それぞれ絹織物で有名なこの二都市であるに違いない。メルヴは特に有名な製産地で、10世紀にアル=アンダルースのアラビア語の資料の中で記載されている。この布の最初の復元案は魅力的である。それは、向い合った象の列が二列あり、それを分けるハート形の玉縁に続いて、縁取りの銘文が鏡で写したように繰り返し表わされているというものである。銘文は、「アブー・マンスール・ブーフテギン将軍に、神の恩寵と幸福を。神は彼を加護し続けぬ。」とある。象の脚の間に小さい翼のついた、首の長い竜が表わされている。この周囲には、そのふたつの瘤によって、はっきりそれとわかる駱駝の列がある。布の縁の角には、首にリボンをつけた鳥が表わされている。首についたリボンで、この鳥が動物園の鳥とわかる。よくみると、駱駝も首にリボンをつけていることに気付く。おそらく、二頭の象も、これまでには、戦争に出る時の象だと解釈されたこともあったが、むしろ、パレードのために着飾った動物として解釈すべきであろう。

波瀾万丈の来歴

このすばらしい布が、ルーヴル美術館に収蔵されるまでの来歴は、記述に値するものである。この布は、1922年2月に取得した。それに先立つ1920年7月25日、サン=ジョス=シュール=メール(パ=ド=カレ県、モントルイユ=シュール=メール市)の神父は、守護聖人の聖遺物を新しい聖遺物匣(せいいぶつこう)に移していた。その聖遺物匣は、ベネディクト会のサン=ジョス修道院より来たものであったが、1195年の古文書では、飾石のついた銀製で、聖遺物全体を被う大きい布とともに記載されている聖遺物匣の、幾度か取り替えられた成れの果ての姿であった。しかしながら、1843年に、聖遺物を移した際には、大きかった布は、わずかに聖人の頭蓋骨の周りに一枚と 骨の周りにもう一枚、もっと大きいのがあるだけだった。1195年の文書には、その前の文書、1134年の文書の記述が記されていて、布の存在とそれがエティエンヌ・ド・ブロワによる寄贈であることが記載されている。このエティエンヌ・ド・ブロワがいったい誰であるか、そして彼と「聖墳墓の教皇の代理人」であり、したがって最初のエルサレムの王であるゴドフロワ・ド・ブイヨンとその兄ボードワンとの推測された兄弟愛の関係について、長い間、解釈に取り違えがあった。この布を寄贈したのは、二人目のエティエンヌ・ド・ブロワで、こちらは、英国王であった。最初考えられた、十字軍の後の戦いで、1102年に、ラムラで死亡しているエティエンヌ・ド・ブロワ、ブロワ伯エティエンヌの息子であった。この英国王の義父、ウスタッシュ・ド・ブーローニュが、ゴドフロワ・ド・ブイヨンとエルサレムのボードワンの兄弟であった。英国王と第一回十字軍のエルサレムと結びついた傑出した家柄とエデッサという西ヨーロッパの最東端の伯爵領との関係が、イラン東部のサーマン朝の地方総督の支配する地で製産された布との関わり合いを説明することができる。英国王と同じ名前であった、英国王の父が、この布の最初の所有者であったかもしれない。そして、1097年以降に、聖地よりフランスにいったん帰還して、家族に手渡したものかもしれない。しかし、彼は東方の地に戻り、そこで歿した。彼はエルサレムには到達しなかった。彼がコンスタンティノープルのコムネノス王朝の宮廷で評価され、この布を手に入れたのかもしれない。ビザンティンの首都とサーマン朝イランとのつながり、また、さらに拡げると、サーマン朝イランとギリシア正教とロシアの世界とのつながりは、資料によってかなり確認されている。また、この布が、フランク族によって支配されていた最も東端のエデッサを通ったことも、忘れてはならない。その場合は、エルサレムの王であり、エデッサ伯爵であったボードワンによって、この布は、彼の兄弟、ウスタッシュ・ド・ブローニュに渡り、そこから英国王エティエンヌ・ド・ブロワの手に入ったのかもしれない。この驚くべき布が、パ=ド=カレ県の修道院にいかにして着いたか、道程を追って再現することは、よって、不可能である。

出典

- ENLART C., Un tissu persan du Xe siècle, Monuments et mémoires, fondation Eugène Piot, XXIV, 1920, pp. 129-148;

- BERNUS-TAYLOR M., MARCHAL H., VIAL G., Dossier de Recensement [suaire de Saint-Josse], in Bulletin du CIETA, n 33, 1971, pp. 22-55 ; n 97, 1989, pp. 123-124.

- Arabesques et jardins de paradis, collections françaises d'art islamique, exposition musée du Louvre, 1989-1990, Éditions de la Réunion des musées nationaux, p. 124.

作品データ

  • サン=ジョスの屍衣

    961年以前

    旧サン=ジョス修道院(パ・ド・カレ県)の聖遺物匣(こう)の中にあったもの

    イラン、ホラサーン

  • 絹、金襴

  • 1922年取得

    OA 7502

  • イスラム美術

来館情報

ルーヴル美術館 パリ フランス
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開館時間
月・木・土・日:9時-18時
水・金:9時-21時45分(夜間開館)

休館日:毎週火曜日、1月1日、5月1日、12月25日
 
 

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