Go to content Go to navigation Go to search Change language

ホーム>作品と宮殿>コレクションと学芸部門>勝利を告げるマラトンの兵士

作品 勝利を告げるマラトンの兵士

彫刻部門 : 19世紀のフランス

勝利を告げるマラトンの兵士

© 1994 Musée du Louvre / Pierre Philibert

彫刻
19世紀のフランス

執筆:
Montalbetti Valérie

マラトンの戦いにおけるペルシア軍に対する勝利の後、一人の兵士がアテネまで40キロ以上を走り抜け、知らせを通達した。彼は伝言を伝えた後、疲労で絶命する。コルトは憔悴した兵士が倒れた瞬間を彫り上げている。誇りに満ちた最後の力を振り絞って彼は上半身を起こし、勝利の象徴である棕櫚の枝葉を高く掲げている。

古代の物語

マラトンはペルシア軍に対して紀元前490年にギリシア軍が最初の勝利を収めた戦いである。ダレイオス王の率いるペルシア軍がマラトン近辺に上陸したが、軍隊の展開には向かないと判断し、再び乗船し始めた。この時、数の上では劣勢であったギリシア軍の指揮官ミルティアデスは、ペルシア軍の奇襲の好機であると判断した。伝説によると、勝利を告げるためにひとりの兵士がアテネまで走り、そこで疲労のために絶命したという。この出来事が、有名なマラソン競技の原点となり、42.195キロの道のりは、二つの都市の距離に相当している。

英雄の姿

母国の栄光のために自らの身を捧げたマラトンの兵士は、高潔な英雄の姿そのものであり、18世紀末以降非常に流行した主題である。コルトは1822年のサロンで作品の石膏原型を発表している。1831年に、権力を手にして間もないルイ=フィリップは、コルトに大理石像を依頼した。この注文は古代の栄光に関する作品の連作で構成されており、中にはダヴィッド・ダンジェによる《フィロポイメン》(ルーヴル美術館所蔵)、ジャン=バティスト・ロマンによる《ウティカのカトー》(ルーヴル美術館所蔵)といった、勇気や母国もしくは民衆に対する忠誠、禁欲主義で有名な数多くの英雄たちの像が含まれていた。1834年のサロンに展示されたコルトの大理石は、ジェームス・プラディエの《プロメテウス》(ルーヴル美術館所蔵)の対の作品としてテュイルリー庭園に設置された。

古典的な理想美

男性の筋骨逞しいこの裸体は、古代彫像における伝統的な英雄の表象を典拠している。作品は彫刻家にとってはアカデミックな見事な裸体像を表現する良い機会をもたらした。兵士のしぐさは、セルゲルの《瀕死のスパルタ人オトリュアダス》(ルーヴル美術館に素描が所蔵)の中で、横たわった兵士が自らの盾に勝利を刻み込むために起き上がる姿を喚起している。スウェーデン人彫刻家は、この作品をパリの王立絵画彫刻アカデミーの準会員入会作品として1779年に発表している。
兵士の後ろに投げ出された頭部は、全てのアトリエがその複製を保有していたという《瀕死のアレクサンドル》(フィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵)の古典的な頭部を連想させる。繊細な起伏が施された顔つきは平然としており、髪の房は規則的に彫り上げられている。兵士は疲れや苦悩、興奮した感情を微塵も見せていない。古典的な伝統を学んだコルトは、例え主題が一種の感情の激しさを要求していようとも、理想美を追求しているのである。
ジェームス・プラディエはこの主題を1852年に《マラトンの兵士》(個人蔵)で再び取り上げている。

出典

-  BRESC Geneviève, PINGEOT Anne, Sculptures des jardins du Louvre, du Carrousel et des Tuileries (II), Paris, 1986, pp. 100-102.

作品データ

  • ジャン=ピエール・コルト

    勝利を告げるマラトンの兵士

    1834年

    1831年、ルーヴル宮殿のために注文されるが、1834-1870年、1872-1877年までテュイルリー庭園に設置。

  • 大理石

    高さ2.06m、幅2.20m、奥行き0.86m

  • 1877年12月3日に最終的にルーヴル収蔵。

    L.P. 243

  • 彫刻

    リシュリュー翼
    地上階
    ピュジェの中庭
    中庭

来館情報

ルーヴル美術館 パリ フランス
地下鉄:1番線または7番線、Palais-Royal Musée du Louvre 駅
 
開館時間
月・木・土・日:9時-18時
水・金:9時-21時45分(夜間開館)

休館日:毎週火曜日、1月1日、5月1日、12月25日
 
 

チケットを購入する