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見学コース ルーヴル美術館の傑作

テーマ別見学コース - 所要時間:1h30 - 見学日: 月 水 木 金 土 日

学校団体 一般団体

site chinois / Escalier Victoire
site chinois / Escalier Victoire

© Musée du Louvre / A. Dequier

00イントロダクション

ルーヴル美術館を最初に訪れると、しばしば、《ミロのヴィーナス》、《サモトラケのニケ》、《モナ・リザ》という、ルーヴルの三大貴婦人に出会うことになります。この見学コースをたどると、こうしたルーヴル美術館の傑作やその他の作品を鑑賞したり、もう一度見直したりすることができます。また、「傑作」という定義するのがきわめて難しい概念を問い直す良い機会にもなります。

ルーヴル美術館が、フランス王室のコレクションを基に1793年に開館した際、過去の「偉大な様式」の復興を目指して、未来の芸術家を教育するために、偉大な手本を提供するという明確な目的がありました。今日でも展示室には常に学生や模作の制作者がいるものの、美術館の実態は大きく変わりました。ルーヴル美術館には毎年、あらゆる国と文化圏から六百万人近い見学者が訪れ、それに応じて様々な美術館の見方があります。しかし、ほぼ普遍的と言っていいほど、いくつかの「傑作」を人々がとりわけ熱心に鑑賞するのは、鑑賞者の国籍や文化を問わず、それが心を打つからでしょう。
紀元前4世紀のギリシアの哲学者プラトンは、いかなる芸術家も「理想美」に到達することはできないと記しました。芸術家は常に、この至高の、時を超越した美という問題に直面し、その時代と個々の天分を反映した解決法を提示してきました。こうした芸術家の応えのうちいくつかは、今日なおその反響が見られます。
しかし、19世紀になって、芸術作品は新しい役割を引き受けるようになり、「傑作」は必ずしも、目を楽しませるための美的な抽象概念である「美」の同義語ではなくなりました。いくつかの作品には、芸術に関するこの新しい考え方が反響しており、多くの点で現代社会における芸術作品の地位やあり方を予告しています。
この見学コースは、時代順ではなく、鑑賞者が自然と足を止めるような作品にスポットを当てるものです。

 

次の作品までのルート :まず、シュリー翼の方向にお進みください。チケット確認の後、中世のルーヴル宮の壕に向かってまっすぐお進み下さい。壕に入る前に、左側に二つの模型があります。下側の模型によって、現在位置を確認することができ、上側の模型は、十四世紀のシャルル五世治世下のルーヴルを示しています。

 

中世のルーヴルフィリップ・オーギュストとシャルル5世のルーヴルの堀跡(12-14世紀)
中世のルーヴルフィリップ・オーギュストとシャルル5世のルーヴルの堀跡(12-14世紀)

© Musée du Louvre / A. Dequier

01フィリップ・オーギュストとシャルル五世治世下のルーヴル宮の壕の遺跡

1200年頃、その三世紀前のヴァイキングの侵攻と同様、ノルマンディー地方からのイギリスの侵入を恐れたフランス国王フィリップ・オーギュストは、パリを取り囲む城壁の前に砦を建造しました。パリの西の入り口を守るこの城砦は、十四世紀のシャルル五世の治世下で、第二の城壁が建造されてパリが拡大し、こうして都市防御のためのあらゆる機能がなくなって初めて、より住みやすい城館になりました。壕の入り口の大模型は、ルーヴル宮のこの第二段階を表わしています。跳ね橋のある正面は、東の入り口に当たり、右側を向くと壕の遠くに見えます。跳ね橋の橋脚は保存されており、それに付属して建造された四角形の塔は、シャルル五世が付け加えたものです。土台の小さな開口部分は、壕に流れ込む便所の穴です。
フランソワ一世は、ルーヴル宮をルネサンス様式で建造することにしました。天守は、地面のレベルまで取り壊され(最後の跡は、17世紀のルイ十四世の治世下に消え去ります)、壕はこうして土で埋められました。この壕は、方形広場の下で7メートルの高さにわたって完璧に保存され、1983年から1985年にかけての発掘で日の目を見ました。この壕は、1989年のピラミッドのお披露目以来、公開されています。スフィンクスの階段の前の右側に最近つくられた通路によって、天守の下と、今日地下に位置するサン=ルイの間にアクセスできます。

次の作品までのルート :
エジプトのスフィンクスがあるところまで階段を上って下さい。通りすがりに、砦のブロックに付けられた石工の印(ハート型、十字架、三角形、あるいは釣針型)に着目して下さい。

 

タニスの大スフィンクス
タニスの大スフィンクス

© 2003 Musée du Louvre / Erich Lessing

02タニスの大スフィンクス

この花崗岩のスフィンクスが、古代エジプト美術部門の入り口にあります。左側の階段を上ると、テーマ別のコースが始まり、その後2階では年代順のコースが続きます。古代エジプト美術部門の最後にあたるローマ時代とコプトのエジプトは、ドゥノン翼で展示されています。
シャンポリオンは、1822年にヒエログリフ(象形文字)を解読しました。次いでシャンポリオンは、1826年にルーヴル美術館に古代エジプト美術部門を設立するにあたって、シャルル十世にこの彫像の精華を含む個人コレクションを取得してもらいました。
ここでスフィンクスには、猛獣であり太陽の象徴でもあるライオンのイメージと、頭巾(ネメス)、頭を持ち上げたコブラ(ウラェウス)、つけひげとカルトゥーシュ(楕円形王名枠)に記された名のおかげで王と分かるイメージとが混在しています。専門家は、もともとギリシア語である「スフィンクス」という言葉は、「生きた似姿」を意味する古代エジプト語「シェセプ=アンク」に由来すると考えています。それゆえ、エジプト美術は、それぞれの表現に潜在的に生命がそなわっている魔術的な芸術として理解されなければなりません。このスフィンクス以上に、古代エジプト美術部門の入り口にふさわしい守護神はいないでしょう!
エジプト美術は、永遠であることを目指し、人間のためにはつくられていないように見えるため、圧倒的です。実際、4千年以上前のこうしたイメージは、常にきわめて厳かな印象を与えます。これほど硬い石にこうしたモニュメンタルな作品を彫り上げることは、技術と忍耐の賜物、傑作と言えるでしょう。

次の作品までのルート :
スフィンクスに背を向け、壕に向かって、左側の階段を上ると《ミロのヴィーナス》の背後に出ます。

アフロディーテ、通称「ミロのヴィーナス」
アフロディーテ、通称「ミロのヴィーナス」

© 2010 Musée du Louvre / Anne Chauvet

03《アフロディーテ》、通称《ミロのヴィーナス》

ギリシア美術を研究することほどフラストレーションを覚えることはありません。実際、ギリシア美術のオリジナルはあまりにも少なく、元々の状態で保存されていることはまずないからです。この彫像に腕があるだけでなく、装身具や色がほどこされている状態を想像できますか?《ミロのヴィーナス》、あるいは1820年にこの彫像が発掘された島の名前にちなんで《メーロスのアフロディーテ》と呼ばれるこの彫像は、ギリシア美術の重要なオリジナルの一つです。この彫像の上半身が裸体であることから、ローマ神話ではヴィーナスと呼ばれる、海から生れた愛と美の女神アフロディーテだと分かります。
この彫像は、細部の様式的な特徴から、紀元前100年頃に制作されたものと推定されます。この作品は、その引き伸ばされたシルエット、三次元空間の中での立体的な構成、官能的な裸体表現から、古代ギリシア史の掉尾を飾るヘレニズム期(紀元前323‐31年)のものと考えられています。
しかしながら、感情を表わさない冷ややかなこの顔は、仮面をつけているような感じを与えます。時と感情を超越したこの顔は、巧みなプロポーションで構成されています。この「ギリシア型横顔」では、顔は鼻の長さ3つ分で、額と鼻とが一直線につながっていますが、もちろんギリシア人の実際の顔がこうだったわけではありません!芸術が表現すべきなのは、神々の美や、プラトンのイデアの美であって、現実の世界ではないのです。アラン・パスキエによれば、「常に私たちのものである表現方法において美を表わしている」このイメージは、「美」を永遠に追求することに対する美しい応え、要するに時を超越した「傑作」となっています。

次の作品までのルート :
《ミロのヴィーナス》に背を向けて、目の前にある回廊を横切って下さい。右側にカリアティード(女像柱)の展示室を見ながら、19世紀には美術館の入り口だった円屋根の建物を横切って下さい。踊り場のある階段を上がると、《サモトラケのニケ》に至る大階段の下に着きます。

 

サモトラケのニケ
サモトラケのニケ

© 2006 Musée du Louvre / Daniel Lebée et Carine Deambrosis

04《サモトラケのニケ》

ギリシアのオリジナル作品は、おそらく地震によって破壊されたものと思われますが、この彫像は、1863年に、エーゲ海の北東にあるサモトラケ島で、多数の破片に砕かれた状態で見つかりました。右側の翼は、唯一残存していた左側の翼を基にした石膏のコピーです。足元のセメントの台座も、近代に作られたもので、この彫像は、船の甲板を表わした彫刻に直接据え付けられていたと考えられています。この彫像は、丘の上の小堂に斜めに取り付けられていたため、右側はあまり念入りに彫り込まれていません。
「勝利」は、ギリシア語では「ニケ」と言いますが、この《ニケ》は、船の甲板で翼を広げた瞬間の姿で表わされています。「ニケ」は、その船に神の恩寵をもたらすとされています。この彫像の右手が1950年に見つかったことにより、元の身振りを再現することができるようになりました。《ニケ》はその手を広げており、「勝利」を予告しています。
まさにヘレニズム期の好みと言える派手なポーズによって、島に近づく船は遠くからでも《ニケ》を望むことができました。プロポーション、身体の形態表現、風にはためく衣襞の扱い方や、きわめて劇的な豊かな動きは、当時の写実性の追求をも物語っています。
研究者は、この彫像は、紀元前190年頃に、ロドス人が海戦での勝利を神に感謝するために奉納したものと考えています。
マルローは、この彫像が運命のいたずらによって、一部が欠けた状態になったことをむしろ歓迎し、それゆえこの作品は、西洋美術において時を超越したイコン、すなわち「運命の傑作」となったと述べています。

次の作品までのルート :
《サモトラケのニケ》に背を向け、踊り場まで階段を下りて、左側あるいは右側の階段を、赤い壁の大きな展示室に向かって上ってください。「赤い展示室」に入ると、最初の部屋には、新古典主義運動の絵画が展示されています。左側には、《ホラティウス兄弟の誓い》が見えます。

 

《ホラティウス兄弟の誓い》
《ホラティウス兄弟の誓い》

© 2009 Musée du Louvre / Erich Lessing

05《ホラティウス兄弟の誓い》

こうした作品は、学校の教科書で見たことのあるイメージを変わることなく思い出させてくれます。教科書では、フランス革命は、偉大な感情と堂々たる雄々しさを表わしたこうした絵画によって語られているものです。しかし、実際にこの新古典主義様式の誕生を促したのはルイ十六世でした。ルイ十六世は、神話が鑑賞者の教化のためというより、女性の裸体を描くための口実になっていた先代ルイ十五世の時代の女性的で軽快な精神に反発したのです。革命家は、祖国のための究極の犠牲を称賛し、古代への回帰において、こうしたイデオロギーに役立つ古代ローマ史上の重要なエピソードを探しました。画家ジャック=ルイ・ダヴィッドは、こうした「新古典主義」運動の総帥となり、この分野における傑作を残したのです。
ホラティウス三兄弟は、父の前でローマに対する忠誠を誓いますが、アルバの町でのクリアトゥス兄弟との決闘を制して帰郷したのは唯一人でした。このホラティウス兄弟の生き残りは、実の妹カミッラを殺害します。というのも、カミッラは、クリアトゥス兄弟の一人と婚約しており、その婚約者が死んだことを知って泣き崩れたからです!
この絵画の場面は、共和国時代の家宅の質素な内装の中で、きわめて簡素に構成されており、舞台のように照らし出されています。男性人物像を構成する直線と強い暖色系の色は、諦めた様子で打ちひしがれている女性の一群を構成するしなやかな線とより明るい色合いとは対照をなしています。筆の跡を残すことは「俗悪」であり、ここでイリュージョン的な空間をつくり出す技法の完璧さは、「スパルタ人に話すように描く」というダヴィッドの配慮に呼応しています。それは、2000年以上前に撮られた瞬間写真のような、ほとんど感覚を狂わせかねない印象を与えます。

次の作品までのルート :
反対側の壁には、同じくジャック=ルイ・ダヴィッドの《ナポレオンの戴冠式》があります。

Sacre de l'empereur Napoléon Ier et couronnement de l'impératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris, le 2 décembre 1804
Sacre de l'empereur Napoléon Ier et couronnement de l'impératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris, le 2 décembre 1804

© Musée du Louvre/E. Lessing

06《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》

ナポレオン一世は、パリのノートル=ダム大聖堂で1804年12月2日に挙行された自身の戴冠式を不滅のものとするため、ダヴィッドにその絵を描くよう依頼しましたが、ダヴィッドはこの巨大な作品を仕上げるのに3年を要しました。戴冠式を機に、大聖堂の内陣も、トロンプ=ルイユ(だまし絵)で描かれた木のつくりによって新古典主義様式に改装され、威風堂々たる場面において各々の人物がその役回りを演じる舞台となったのです。
あらゆる政治的プロパガンダの作品と同様に、この作品でも実際の様子をいくつか脚色しているのは明らかです。例えば、中央の王座には皇帝の母が描かれていますが、息子に怒っていた母は実際にその日には出席していませんでした。皇帝の首席画家として駆け引きに長けていた画家の筆によって、実際より大きく細身に描かれたナポレオンや、若返ったジョゼフィーヌの理想的な美もそうした脚色です。結局、皇帝が自分で戴冠するという身振りほど挑発的ではない、皇妃ジョゼフィーヌを戴冠する場面が好まれたわけですが、ナポレオンの背後に座している教皇ピウス七世は、さして納得した様子もなくジョゼフィーヌを祝福しています。
巧みな照明効果によって、こうした主要人物たちが、総勢150人の肖像の中から浮き彫りにされ、宝石の輝き、布の滑らかさ、ビロードのクッションの柔らかさといったものが映えています。ダヴィッドは、高位高官の豪奢の誇示を不滅のものにする現代の写真の先駆者であり、こうしたニュースにおいては、豪奢は大衆に夢を見させる役割を果たしています。しかしながら、こうした主要人物の中で最も生き生きしているのはおそらく、画面右側で赤い衣裳を身にまとったタレイランで、これ見よがしの誇示に対して、皮肉な視線を投げかけているように見えます。

次の作品までのルート :

展示室の奥に向かってお進み下さい。向かい側の二つの扉の間に《グランド・オダリスク》が見えます。

《オダリスク》
《オダリスク》

© 2005 Musée du Louvre / Angèle Dequier

07《オダリスク》、通称《グランド・オダリスク》

ここでアングルは、裸婦という古代のテーマをオリエントの世界に移し換えています。アングルは、夢の中でしかオリエントを旅したことがなく、オリエントは、異国風の内装の中で裸体をさらけ出したハーレムの女性―この作品の標題―の官能的なイメージを描く口実でした。アングルは、晩年に至るまで、《トルコ風呂》のように、オリエンタル風のテーマと、最もお気に入りの主題の一つである裸婦像を描き続け、ラファエッロやマニエリスムの芸術家からペルシアの細密画家に至るまで様々な影響を自らの絵画に取り入れました。
アングルは、他の作品に見られる技法や古典古代への関心において、師のダヴィッドと同様に古典主義的な芸術家と言えますが、素描における線描や官能的な曲線に優位を与え、必要に応じて身体の解剖学的な現実をデフォルメすることによって、古典主義的傾向からは離れています。実はこのオダリスクは、脊椎の骨が三つ余計に多いのです!それと同様に、右胸と左脚は、他の身体の部分に奇妙な具合にくっついています。こうした身体のデフォルメとは対照的に、重々しい青の衣襞、ターバンや水煙管は、イリュージョン的なやり方で描かれています。
この空想的な融合の産物に完全に当惑した当時の批評家は、アングルの特異な様式を軽蔑したものでした。そのかわり、アングルは、近代芸術家に顕著な影響を与えることになり、その中でもピカソは、アングルの創造性と身体を自分のやり方で再構成するやり方を巧みに取り入れます。
さらに、青と金色のむしろ冷たい調和によって、このイメージは現実から引き離され、芸術家の見た純粋な幻影となっていませんか。

次の作品までのルート :

次の展示室、ドゥノンの間と進み、《モナ・リザ》の展示室に入ってください。目の前に、ルーヴル美術館の最も大きな絵画であるヴェロネーゼの《カナの婚宴》が見えます。

《カナの婚礼》
《カナの婚礼》

© 2010 Musée du Louvre / Angèle Dequier

08《カナの婚宴》

この巨大な絵画は、ヴェネチアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ修道院の食堂を飾っていました。素晴らしい色彩家であり、多数の人物を配した巨大な場面を描く才で名を成したヴェロネーゼは、ここでカナの婚宴におけるキリストの最初の奇跡の場面を描くことにしました。ヴェロネーゼは、鑑賞者を場面に引き込むような遠近法を用い、聖書のエピソードを16世紀当時の豊かなヴェネチアに移し換えています。婚宴の際に葡萄酒がなくなった貧者の家で起こるとされるこのエピソードに、壮麗な舞台を与えている布の光沢、豊かな宝石、銀皿と鍍金した皿、パッラーディオに想を得た優美な建築に着目して下さい。中央を占めるキリストの右側では、マリアが見えないグラスを手にして、葡萄酒がなくなったことを確かめています。前景右側では、黄色い衣裳をまとった人物が、葡萄酒に変わった水を大壷から注ぎ、その背後にいる二人の人物がこの奇跡を確認しています。緑色の衣裳をまとった男性は、左側の円柱の前にいる新郎新婦に駆け寄り、どうして最上の葡萄酒を婚宴の最後に取っておいたのかと尋ねています。<br  />この作品は、縦方向に、肉をぶつ切りにする肉屋、音楽家のテーブルの上にある砂時計、骨をしゃぶる犬といった象徴的なイメージに沿って、別の読み方をすることができます。すなわち、そこには「子羊の犠牲」の予告、そしてこの奇跡によって真の性質を現わしたキリストの死が読み取れるのです。しかし、この犬たちは、忠誠の寓意、信仰によって雲を払うキリスト教徒の寓意でもあります。

次の作品までのルート :

それでは、振り返って《モナ・リザ》をご覧下さい。

《フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニの肖像》
《フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リーザ・ゲラルディーニの肖像》

© 2007 Musée du Louvre / Angèle Dequier

09《フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像》

フランソワ一世が1518年に取得し、当時の芸術家に称賛されたこの《モナ・リザ》が、一躍有名になったのは20世紀のことでしかありません。それはこの絵の素晴らしさもさることながら、とりわけ1911年に盗難に遭ったというその「波乱万丈の運命」によるところが大きいのです。
レオナルドは、ほとんど魔術とも言える、まぶしいばかりに美しい絵画技法を駆使し、上塗り(ほぼ透明に近い、非常に薄くのばした色の層)によって形をつくり上げ、色をぼかすこと(スフマート)によって巧みな明暗効果を生み出しています。レオナルドは、褐色から青色に移り変わる空気遠近法を用い、空気の密度によって、大地と水を表わす抽象的な風景を描き出しました。ニスが古くなって色調が暗めになってしまったことは残念です。かつて袖はサフラン・イエローだったのいうのに!
このモデルが誰であるかということをめぐっては、時に突飛な仮説も生まれ、このモデルが実は男であるという説さえあります!しかしおそらくこの絵は、1503年から1507年にかけてフィレンツェで描き始められた、モナ(「夫人」の意)・リザ・ゲラルディーニ・デル・ジョコンドの肖像であると考えられています。「ジョコンダ」という言葉には「幸せな」という意味もあることから、「モナ・リザ」の微笑は、「ジョコンド夫人」の名を象徴しているとも言えます。
このきわめて薄い(12 mm)ポプラの板にただ、その時代の最も重要な肖像画が描かれているわけですが、《モナ・リザ》は、富裕なブルジョワのこれ見よがしなイメージを表わしているのではありません。もっとも、「モナ・リザ」のポーズや身なり、そしてまつ毛や眉がないことが、その身分の高さを示す優美さにふさわしいとは言えます。この作品は、とりわけ理想的な肖像画であり、身体の美に魂の美を見る、プラトン的な時間の追及を反映したものです。

次の作品までのルート :

ドゥノンの間に戻り、ロマン主義運動とその巨匠テオドール・ジェリコーとウジェーヌ・ドラクロワの作品を展示した左側の部屋にお入り下さい。ロマン派の絵画は、何よりもまず鑑賞者の感情に訴えかけようとします。左側の少し先に《メデューズ号の筏》が見えます。

《メデューズ号の筏》
《メデューズ号の筏》

© 2010 Musée du Louvre / Angèle Dequier

10《メデューズ号の筏》

ロマン主義宣言とも言えるこの絵画は、1819年のサロンですさまじいスキャンダルを巻き起こしました。ここで芸術家は、初めて注文なしに同時代の出来事を描き、歴史画向けの大画面に無名の人々を描き出したのです。
今日の芸術をしばしば活気づける批判精神の先駆であるこの主題は、その当時の政府を辛辣に批判するものです。1816年のメデューズ号の遭難は、実は政治家の後押しで船長の地位に舞い戻ってきた者の無能さによって引き起こされたのです。救命ボートのない149人の船員は、唯一つの筏にぎゅうぎゅう詰めになって12日間漂流し、虐殺と狂気と人喰いを免れて生き残ったのはたった15人だけでした!
角から見上げられた筏は非常に不安定に見え、二本の対角線にドラマが凝縮されています。一本の対角線は、筏を今にも飲み込みそうな大波に視線を導き、もう一本の対角線は、メデューズ号の船員を救助するアルギュス号のごくわずかなシルエットに向けられています。こうした斜めの大構図は、おそらく同僚に貪られた男の上半身に表わされた悲劇や、死んだ息子を抱えて途方に暮れた男の落胆、突然立ち上がる瀕死の者、助けてくれるかもしれない救助者に向かって夢中になって合図を送る者の希望といった、あらゆる心理状態を思い起こさせます。しかし、ジェリコーが描き出したこの局面では、この恐怖の均衡にかろうじて支えられた筏がどちらの側に傾くかを誰も知りません。
ここでは、この心を揺さぶる話の唯一の英雄は人間性であり、それこそが今日でも私たちを感動させるのです。

次の作品までのルート :

展示室の奥に向かって進むと、カフェのある階段の踊り場に出ます。左側の廊下を進み、展示室10と11を横切って下さい。そうすると、アンリ四世が建造したグランド・ギャラリーに出ますので、すぐに右に曲がって下さい。その奥には、《モナ・リザ》の展示室があります。

《奴隷》
《奴隷》

© 2010 Musée du Louvre / Raphaël Chipault

11《囚人》

イタリア以外で所蔵されているミケランジェロの作品は非常に稀ですが、ルーヴル美術館は、フィレンツェのロベルト・ストロッツィからフランス国王に贈呈されたこの二つの堂々たる彫像を所蔵しています。ロベルト・ストロッツィ自身は、この二つの彫像をミケランジェロから自ら受け取ったのです。この二つの彫像は、フィレンツェのアカデミア美術館に所蔵されている他の彫像とともに、教皇ユリウス二世の墓を飾るために制作された一連の彫刻の一部です。元々巨大であったこの構想は、幾度か変更され、最後にはきわめて縮小された規模のものになってしまいました。この作品は、敗者の受難の象徴、身体に鎖でつながれた魂の象徴、あるいは教皇の権威に従う国家の象徴と、様々な読み方が可能です。また、ここでは、芸術の重要な庇護者(ユリウス二世は、システィーナ礼拝堂の装飾事業の出資者でした)の歿後に自由を奪われた諸芸術という読み方も可能でしょう。というのも、瀕死あるいは眠っているように見える奴隷の足元に猿がいるからです。猿は、猿が人間をまねるようなやり方で、現実を模倣する絵画を表わしている寓意なのです。
これらの作品は、彫刻の鑿(のみ)の跡を多数とどめていることから、未完成であったことが分かります。他の彫刻家とは逆に、ミケランジェロは、概して型なしに塊を正面から背面に向かって彫り進めました。反抗した奴隷の手が、大理石にいまだ囚われているように見える様に着目して下さい。直接石材に彫り込む素晴らしい芸術家だけが、あえてこうした大胆なやり方ができるのです。自身の制作を誇示するルネサンスの芸術家ミケランジェロは、いつ鑿を止めるかを自身で選ぶ、創造者の自由をここで要請しているのです。

次の作品までのルート :

階段を下りると、ピラミッドの下のナポレオン・ホールに再び出ます。

 

執筆: :

サンドリヌ・ベルナルドーRMN解説員