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ルーヴルの歴史
宮殿から美術館へ

ルーヴルを訪れると、そのコレクションを通して中世から1848年までの西洋美術や様々な古代文明と出会うことができる。そして、訪れる者はもう一つの歴史へと誘われる。美術館を擁する大宮殿の起源は12世紀末までさかのぼり、まさに建築史を学ぶことのできる教科書そのものである。1200年から2011年の間、最も革新的な建築家たちが相次いでルーヴルの建築・増築に携わった。長年にわたって権力の中枢となったこの王宮は、1870年まで国家元首たちの居住としても使用され、パリ、そしてフランスの歴史が繰り広げられる大舞台の一つでもあった。

フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト)とルーヴルの設立

ルーヴルの歴史は、1190年頃にフィリップ2世が、パリを防御する目的で要塞化した城壁の建設を決めたときに始まる。それは、十字軍参戦のために国を離れる際に国王が示した都市計画の一つであるとともに、その権力の表れでもあった。この要塞の弱点の一つであったセーヌ川との接合部分を防御するために、城の建設を考えなければならなかった。これがルーヴル城の誕生である。フィリップ2世の建築技師たちが考案した建物は、方形の敷地に建てられ、周囲を濠(ほり)で囲むとともに、四隅と建物正面側の中央部は円塔によって守られていた。その中庭の中央には、周囲を濠に囲まれた主塔がある。この城のモデルは、他の城を建設する際に、応用を加えて何度も採用されている。イル・ド・フランス地域圏のドゥルダン城は、今日でもよく保存された例の一つである。

フィリップ2世の時代のルーヴルは、王の居住ではなく守備隊のための城塞であった。ルーヴルは、今日のように町の中心地ではなく外れに位置しており、町を守るとともに、おそらく町を監視する役目も担っていた。ルーヴルの「グロス・トゥール」と呼ばれる主塔は、王の金庫として使われるともに、地位の高い人びとの監獄の役割も果たしていた。フィリップ2世の政敵フェラン伯は、ブーヴィーヌでの敗戦後、この監獄に13年間も勾留された。
しかし、城の状況はまたたく間に変わっていく。城の周りは、次第に込み入った町に取り囲まれるようになったため、要塞としての意味を失いっていった。さらに、首都の中にある複数の居住の間を移り住むことを好んだフランス国王たちは、次第にルーヴル宮に住むことになる。宮殿の地下に支柱のある大広間が設(しつら)えられたのは、サン・ルイ王(1226—1270年)の治世下で、この遺構は今日でも目にすることができる。

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  • 城壁の推移を示す図

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    リリース:2016年4月15日

  • ルーヴルの濠

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    リリース:2016年4月15日

  • ルーヴルの主塔

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    リリース:2016年4月15日

  • ジャン・ド・サリスベリー《書斎のシャルル5世》、フランス国立図書館(FRANCAIS 24287)

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    リリース:2016年4月15日

  • 《シャルル5世とジャンヌ・ド・ブルボン》、ルーヴル美術館(RF 1377-1378)

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    リリース:2016年4月15日

  • 《サン=ジェルマン=デ=プレのピエタ》、ルーヴル美術館(Inv 8561)

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    リリース:2016年4月15日

  • 《いとも豪華なる時禱書:10月》、シャンティイー、コンデ美術館蔵(Ms65-folio10裏面)

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    リリース:2016年4月15日