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ルーヴルの歴史
宮殿から美術館へ

ルーヴルを訪れると、そのコレクションを通して中世から1848年までの西洋美術や様々な古代文明と出会うことができる。そして、訪れる者はもう一つの歴史へと誘われる。美術館を擁する大宮殿の起源は12世紀末までさかのぼり、まさに建築史を学ぶことのできる教科書そのものである。1200年から2011年の間、最も革新的な建築家たちが相次いでルーヴルの建築・増築に携わった。長年にわたって権力の中枢となったこの王宮は、1870年まで国家元首たちの居住としても使用され、パリ、そしてフランスの歴史が繰り広げられる大舞台の一つでもあった。

悲しき「ベル・エポック」

帝政の崩壊、チュイルリーの破壊、権力からの離脱は、ルーヴルに美術館としての華々しい勝利をもたらすことができるはずだった。しかし現実には、第三共和政下はルーヴルにとって厳しい時期となる。宮殿は、多くの空間を要する多数の行政機関に占拠される。特に、財務省は元国家省が置かれていた場所を使用し、1986年までとどまり続ける。1905年に、応用美術の促進を目的とする団体「装飾芸術中央連盟」が、マルサン・パヴィリオンと隣接する翼の一部の利用権を得て今でもそこを占用している。一方で、ルーヴル美術館は、ヨーロッパの大美術館のあいだで過熱していた美術品市場の競走において、低い予算しか持ち得ていなかった。二つの不幸な出来事が、この難しい時期を物語っているようだ。それは、1896年に購入した《サイタファルネースのティアラ(冠)》が贋作だと判明した事件と、1911年の《モナ・リザ》盗難事件である。

これらの問題があったとはいえ、他の進展を忘れてはいけない。1883年から、ダリュの大階段の最上部での《サモトラケのニケ》の展示開始や、大美術館のための作品購入基金と、購入の必要性と資金を相互援助するための機関を兼ね備えた「国立美術館連合」の創設だ。また、ルーヴル美術学校(エコール・デュ・ルーヴル)の創立によって、美術館の学芸員たちも研究成果の発表・普及の可能性をもつことになる。ルーヴルの普遍主義の野望は、寛大な寄贈者からの作品寄贈のおかげで継続される。特に、エルネスト・グランディディエは1894年に中国と日本の美術品コレクションを寄贈し(現在はギメ東洋美術館にて展示)、1912年のグレオン男爵の遺贈品はイスラム美術セクションの創設(開設は第一次世界大戦後)を可能とした。

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  • 「大ルーヴル」の取り壊し、 国立文書館蔵(64 AJ 286 d 24)

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    リリース:2016年4月15日

  • 《サモトラケのニケ》の大階段、1934年、 ルーヴル美術館

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    リリース:2016年4月15日

  • 「スフィンクスの中庭」, 1934年, ルーヴル美術館

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    リリース:2016年4月15日

  • ルーヴル、チュイルリー地区とパリの航空写真(東向きに撮影)

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    リリース:2016年4月15日

  • 「マルリーの中庭」、1993年、 ルーヴル美術館

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    リリース:2016年4月15日

  • ルーヴル=ランス美術館、建築事務所SANAA(妹島和世、西沢立衛)— イムレー・キュルベール(セリア・イムレー、ティム・キュルベール)— モスバーハ風景デザイン(カトリーヌ・モスバーハ)

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    リリース:2016年4月15日

  • ルーヴル美術館「ヴィスコンティの中庭」におけるイスラム美術部門の新スペース屋根部分(R・リッチョッティ、M・ベッリーニ/ルーヴル美術館)

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    リリース:2016年4月15日

  • ルーヴル・アブ・ダビ建築プロジェクトの外観

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    リリース:2016年4月15日