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男性のミイラ

© 1998 Musée du Louvre / Etienne Revault
古代エジプト美術
宗教と葬祭信仰
保存状態がきわめて良好なこのミイラは、プトレマイオス朝時代に生きていた男性のものである。この時代の風習に従って、遺体は亜麻の包帯で丁寧に巻かれており、なかでも顔面は芸術的なまでに見事に仕上げられている。遺体を覆うカルトナージュは、頭部を覆う仮面、胸部に置かれた幅広の首飾り、脚部にひろげられた前掛け、そして足部の被覆で構成されている。
カルトナージュの装飾
X線検査の結果、このミイラは成人男性のものであることが判明した。本人の名前が走り書きされているものの、パシェリともネヌとも読め、その判読には未だに問題が残る。顔面は調和の取れた線で描かれた仮面で覆われ、その頂部には再生の象徴である有翅スカラベが描かれている。胸部を覆う幅の広いウセク首飾りは、幾重にも連ねられたビーズの鎖でできており、ハヤブサの頭部を模した留め金が付いている。体を覆う前掛けには、何段かに分かれて様々な場面が描かれており、寝台に横たえられたミイラが、イシス女神、ネフティス女神、およびホルス神の4人の息子達に囲まれている場面も見ることができる。足を覆う箱には、埋葬の神アヌビスの像が二体描かれている。銘文には、死者が自らの運命を託すすべての神々の名前が列挙され、ネクロポリスで盛大な埋葬を行ってほしいという、死者の切望が記されている。
永遠に保存される遺体
古代エジプトでは、誰もが永生を保証してくれる埋葬や葬祭儀式をしてもらえたわけではない。多くの人は砂漠に掘られた単なる穴に埋められ、質素な供物が置かれるだけで満足しなければならなかった。一握りの幸運な人たちは、遺体を保存することによって、来世での永生をさらにかたく約束されていた。生きている者を構成する様々な要素は、死後散らばっていくと信じられていたので、遺体をミイラにすることは、それらの散らばった要素に新しい媒体を提供することを意味していた。初期のミイラは、樹脂に浸した包帯で遺体を巻いただけのものであったが、その手法は飛躍的に進歩し、実質的には新王国時代に完成をみることとなる。以後ミイラの数は著しく増加するが、その質は低下の傾向をたどる。しかし、グレコ=ローマン時代のミイラには包帯が巧妙に巻かれた見事なものが多く見られる。ミイラは作成された時代により、衣装、網目状のビーズ細工、仮面、装飾が施された木板、あるいはカルトナージュなどで覆われることもあった。プトレマイオス朝時代には、ミイラを棺に納める前に、カルトナージュでできた様々なパーツがミイラの上に載せられた。
後期の証言:ヘロドトス
紀元前450年頃にエジプトを訪れた歴史家ヘロドトスは、ミイラ処理の手法についてきわめて詳細な記述を残している。その記述によると、遺体処理法には質や値段の異なる三種類の方法があった。最も念入りな方法では、腐敗しやすい脳髄と臓腑を除去し、臓腑は別個にミイラ処理が施され、カノポスと呼ばれる壺に保存された。その後、体内を椰子の酒で洗い清め、すりつぶしたミルラ(没薬)や多種多様な香料が体内に詰められた。乾燥を促進させるため、遺体は通常70日間ナトロン(天然の塩化化合物)で覆われた。このような処理を終えた後、遺体を樹脂に浸した亜麻の包帯で巻いていった。その間、神官たちは入念に、お守りの役目を果たす護符を多数包帯の中にすべりこませた。